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夜ごと繰り広げられる物語。美味い飯と旨い酒には物語が存在する。

第二夜 CATCH & RELEASE
〜本日のメニュー
  鱒のルイベ
  リゾットの白ワイン風味
  鱒のムニエル

 まずお断りしておかなければいけないことだが、私はプロの料理人でもなければ、無限にプロに近いこだわりの素人料理人でもない。
今回のメニューを見ていただくとわかるが、鱒のルイベはわさび醤油で食べるわけだから、日本風。次のワインで煮込んだリゾットは本格的なイタリアンだ。しかも前菜に使った鱒をメインのムニエルにもつかっている。これはできることなら避けたいことだが、自身の事情で避ける事ができない。つまり昨日河口湖で釣って来た三匹の鱒-ブラウントラウトを無駄にするわけにはいかないのである。
 更に難クセをつければ、川魚と、繊細なリゾットの組み合わせも、決して洗練されているとはいえない。どうしてもここにパスタ類をもってきたいのなら、ピリ辛トマト風味のペンネというところだろう。味がきりりとはっきりしていうので、個性的な鱒の味にしっかりと太刀うちできる。

 アリエッラけれども私はどうしても今週のメニューにリゾットを加えたかったのである。というのは、先日いきつけのイタリア料理店「タパス」で、白ワインのリゾットをオーダーしたさい、料理長は私が料理を待ちながら飲んでいる白ワインの「アリエッラ」を途中で、ちょと拝借と持っていってリゾットを煮込むのに使い、残りをまた返して来た。味の方は-。米の煮具合は当然アルデンテ。褐色に炒めたタマネギのほのかな甘みが、白ワインの風味を引きたてて、まさに絶品。しかしこれはプロの味だ。 という訳で、私はリゾットに挑戦してみようと思った次第である。そう思うと矢も盾もたまらなくなるのが、私の性格だ。

さて本題にもどろう。昨日河口湖で釣って来た三匹のブラウントラウト-学名をサルモトルッタという-のうち、大き目の一匹は三枚におろされ、すでに冷凍庫で凍っている。その一枚の切り身をとりだし、ほどよく冷凍が戻りかけたところを、刺身状に切り皿に並べる。食する時にまだ少し芯のあたりが凍っている頃が食べ頃だ。

裕美はすでに居間で、ウィスキーのオン・ザ・ロックを飲んでいる。私としては、シャンパンかせいぜいシェリー酒を飲んでいて欲しいところだが、裕美は食前も食中も食後もウィスキーのオン・ザ・ロックに固執する女だ。しかも、バランタインの三十年もののみを、ひたすら好むという贅沢な女なのだ。
他人の心をつかむ美しいグラフィックアートで生業をたてているためか、当の本人は、みごとなまでに素っぴんである。どちらかと言うと男顔で眉が濃く、意志的な顔立ち。その裕美が三杯目のオン・ザ・ロックのために、冷蔵庫の氷を取りに来て、言った。
「ねぇ。あなたどうして、あたしを釣りに連れていってくれないの?」
裕美とはデザインに関わる仕事の時はたいてい一緒なのだ。締めきり前に二人で朝を迎えた事も少なく無い。それももう何年も続いている。
「きみの大事な子宮のためだよ」
私は、オリーブ油でタマネギを炒めながら答えた。
「湖は寒いからね。ボートの上は腰が冷える」
と私は、洗っていない米を平鍋の中で炒めたタマネギに加え、混ぜ込みながら言った。リゾットのコツのひとつは、米を洗わないことなのだ。「それとトイレの問題」
「とかなんとか言って」
と、裕美は冷蔵庫に背中をもたせかけると、濃い眉をピクリと上げた。「本当は、一人ひそかに淫乱な妄想にふけりたいんでしょ。ねぇ、釣り師って好色な人間が多いってほんと?」
「ほんとさ。釣り人とかけて好色と解く。その心は?-」
米が焦げ付かないように、たえず鍋の中身をかきまぜながら、私は答えた。米が透き通る感じになるまで、せっせと炒めなければならない。
「その心は?」ぐびりとバランタインを飲みながら裕美が質問に質問で答えた。いくら飲んでも別に私の懐は痛まない。裕美の持ち込みなのだ。
「たとえば新緑の頃-」
と私が答える。
「あのむせかえるような新芽の匂いたちこめる湖にいると、それだけで、エレクトすることがあるんだ。きみにはわからないだろうけど」
「あたりまえエレクトするものもっていないもの」
「それと、なんだね、魚の体のぬめりの感覚。あれはまさに-」
「ストップ。それ以上言わなくても、想像できるわよ」
「とすると、きみも相当に淫乱だぜ」
私はニヤリと笑い、透明感の出て来た米の中に、白ワインを注ぎ込んだ。「更に付け加えれば、釣るという言葉は、まさに女を釣るゲームを連想させるよね。そんなところかな」
「もしかしてあなた、あたしを釣り上げたつもりなの?」
「いやいや、裕美。釣った魚には餌はやらないと言うだろ?」
米が水分をすっかり吸収したところで今度はスープストックを加える。前後になるが、今夜のリゾットのカクシ味は、牛骨の骨髄が入っている事だ。タマネギを炒めている時に、ペティナイフでくりぬいた骨髄を加え、一緒に炒めるのだ。
「何をつくっているのか知らないけど、そんなものであたしを釣れると思ったら大まちがい」
「それは味をみてから言ってもらいたいね」
裕美とは数え切れない程一緒に仕事はしているが、まだ、二人の関係は友情の域を出ていない。
私は、仕事中に、同僚とも言うべき女に、手を出す事は、自分に固く禁じている。というより、仕事中は相手が女であろうと戦友みたなもので、まるきり、その気にならないというのが本音だ。
しかし、今夜は別だ。全くのプライベート・タイム。
「さっきの話にもどるけど、女を釣りには誘わない。これって結論?」 「さっきも言った通り、新緑の匂いでもやもやっときて魚体のぬめりで興奮の極度に達したら、裕美なんか強姦するの、簡単だからね。それとも強姦されたい?」
それには答えず、裕美は眉をしかめていった。
「一体いつまで、そうやってかきまぜているつもり?釣り人て、ほんとうに忍耐強いのねぇ」
「正確には十七分」
タパスのシェフが料理している時間を計っての結論だ。
「でもさ、釣り人が忍耐強いってのは当たらないね。実は大いに短気なんだ」
「短気で一日中のんびり釣り糸たれてられますか」
裕美はグラスを片手に居間の方に戻って行く。
ところが、やっぱり短気なのだ、と私は胸の中で呟いた。魚がかかるまでの一瞬一瞬、腹は煮えたぎるような思いで一杯なのだ。怒りで一杯なのだ。たえず、自分をののしっている。
のんびりかまえている奴になど、魚が釣れる訳が無い。水面をにらみつけ、胸の中でたえず激しく悪態をついているのがアングラーなのだ。私は再び白ワインをひたひたに注ぎ入れ、鍋をまぜ続ける。タパスのシェフは、三度だけWを描くようにかきまぜる、と言ったが素人ではとてもそうはいかない。すぐに焦げ付いてしまうのだ。
そろそろ、ルイベの解凍具合がちょうどよい時分だ。裕美にそう言って食卓に運ばせる。ついでに、サメ皮のおろしで生ワサビも擂らせる。人使いが荒いと彼女はぶつくさ言う。
「共有体験って奴さ。親しさが、ぐっと増すような感じがするだろう?」
三度目のワインをまた注ぎ込んでおいて、私は大急ぎで食卓に坐ると、裕美と共に今宵の前菜、鱒のルイベを食した。舌の上で、シャリっとした一瞬の感触を残して、まさにとろけるような味。途中で何度も立って行っては、リゾットをかきまぜ、また食卓に戻る。裕美が口を尖らせた。
「もしかして、ベッドの中でもそんな風に出たり入ったり落ち着きが無いの?」
「きみに最高のリゾットを食べもらいたいから我慢してくれよ。そのかわり、ベッドに入ったら、朝まで一歩も出ない。なんなら、明日会社を休んでもいいよ」
また席をはずしてリゾットの方へと、飛んで行く。間一髪焦げる寸前だ。味見すると、ほどよいアルデンテ。素早く直前に下ろしておいたパルメザンチーズをまぜこみ、溶けたところで火を止める。熱々を皿に盛り、食卓へ。このあたりすべて一気の勝負だ。「お喋りは後。一心不乱に食べてくれ」
冷えた白ワインは、拝み倒してタパスから分けてもらったアリエッラだ。シェフがやった通り、同じアリエッラをリゾットにも使用した。その残りだ。私は逸る思いをじっと抑えて、一口リゾットを含んだ。
スープストックを控えた分だけ味がサラリと洗練されている。タマネギの量を少なくし、茶褐色になる寸前でやめたので、タパスのリゾットほどコクと甘みはないが、そのかわりワインの風味が微かに立ち昇ってくる。これぞ僕だけの味。彼は、してやったりと満足気に裕美を見やった。
「どう?」
自信満々に訊いた。
「はっきり言って・・・」と裕美が言った。いつだって彼女ははっきり物事を言うのだ。
「まだシンが残ってるみたい」
私は唖然とし、もう少しで手にしたフォークをとり落としそうになった。「その点を抜かせば、味は結構よ」と裕美はケロリとして言った。物事をはっきり言うことと、時たま、おそろしく見当はずれな発言をするのも、裕美の裕美たるゆえんだ。
「あのね、裕美、その点だけは抜かせないんだ。シンが残っいることがこの料理の命なんだ」
一体僕がこの十数分間、全身全霊で鍋の中身をかきまぜてきたのは、何のためであったのか。絶妙のシンを残して仕上げるためではないか。
「あのね、裕美」と私は更に言い足した。
「アルデンテって言葉、知ってるよね?」
「ええ、スパゲティーの時に使うわよね」
「リゾットでも使うんだ」
「でも」と、裕美は涼しげな顔で私をみつめた。「あたし、個人的な好みで言えば、ご飯はシンがない方がいいと思うわ」
それで終わり。それが結論。個人的な好みの問題を持ち出されたら、何をか言わんや、だ。裕美を喜ばせたいと願ったかぎりにおいて、この料理は完全に失敗だ。
彼女は喜ばなかった。好みではないとさえ断言した。私はおそろしく惨めな気持に襲われた。
「でも失敗は成功の母というじゃない。次の時はきっと上手くいくわよ」
その言葉は、ベッドで首尾よくやれなっかた男を慰める言葉と酷似していた。そして私はまさにそのような気分に陥りつつあった。
なんとか食事が済んだ。鱒のムニエルに関しては、裕美は健康でノーマルな食欲を見せた。
けれども、何かがどこかで決定的に欠落してしまったような感じを私は拭えないでいた。男と女の関係で、感性が決定的に違ってしまっていたら、だめなのではないだろうか。アルデンテをシンという女は、だめなのではないだろうか。
私は悲しい気分に襲われたまま、裕美の美しい素顔をみつめた。
このあとどうするつもりなの、と少なくとも、八杯目のバランタインで陶然とした眼で、裕美は私を見返した。
しかし、それはあくまでもバランタインの三十年ものが成せるわざで、決して私の男としての魅力に、陶然としているのではなさそうだ。
「あたしを口説かないの?」
といかにも不思議そうに裕美が訊いた。
「あのね、裕美」
と私はしごく真面目な顔で言った。「キャッチ&リリースって知ってる?」
「何なの、それ?」
「釣り師の言葉。あるいはモラルと言い直してもいい。つまり、つかまえた魚を、そのまま水の中へ放してやることを言うんだよ」
裕美はもうろうとした頭で、何ごとか考えようとしていた。「せっかくつかまえたのに、なんでわざわざ逃がしたりするのよ?」
私は即答せず、かわりにこんなふうに説明した。
「釣った魚をどうこうする気がない時は、そのまま釣り上げず、水の中でそっとフックを取り除いてやるんだ。とくに鱒っていういうのは非常にデリケートな魚なので、驚かさないように、水で手を充分に冷やしておいて、取り扱う。できるだけ無傷で逃がしてやることが大事なんだよ」
「でもさ」と裕美は冷たく言った。「魚にはプライドってものはないわよね。だからプライドは傷つかないわよね」
「信じないかもしれないけど、裕美。魚にもプライドはあるんだ。特にブラウントラウトにはあるんだ」
「もしかして、それってあたしに帰れっていう、遠回しの比喩のつもり?」
柳眉が逆立っている。
「そう取りたければ・・・」
「じゃ、あたし、無傷のまま、帰らせて頂くことにするわ」
と彼女は憤然とテーブルの上にグラスを置いた。
「多分、その方がいいと思うよ。でないと君は本当に傷付いてしまう」
「あたし、そんなに柔でもないしウブでもないわよ」
と裕美は皮肉たっぷりに言った。「それに何も男とベッドを共にするのは、これが初体験ってわけでもないし」
「でも、ベッドでも、きみのお気に召さないと思うんだ」
「あらどうして?」
「何しろ僕ときたらアルデンテだから。そしてきみはアルデンテが嫌いときている。...つまり、そういうことさ」
私は裕美を送っていくために、腰を上げた。

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